「越前のうに」「三河のこのわた」と並んで江戸時代から日本三大珍味のひとつに数えられてきた「肥前のからすみ」。古くはギリシャやエジプトなど地中海沿岸を起源として広まり、日本には承応年間(1650年代)に中国から伝わったといわれています。
延宝3(1675)年に創業の「高野屋」は、ボラの卵巣で製造する「長崎からすみ」の元祖。昔ながらの手づくりにこだわり、極上の味わいを今も大切に守り続けています。今回ご紹介するお礼の品は、そんな高野屋が作る、からすみと、からすみの「ほぐし」「茶漬け」と豪華な3点セットです。
「うちは細く長く、まじめにコツコツやっているだけですよ」と気さくに話してくれるのは、高野屋の高野正安(たかの・まさやす)社長。なんと十四代目というから驚きです。
長崎・浦上地区の工場で、多くの手間と時間を費やして丁寧に製造される長崎からすみ。原料となるボラの卵巣は塩漬けにされたものを仕入れ、こだわりの塩をさらに加えて1週間以上塩漬けにします。「日本では昭和40年代後半から塩が大きく変わりました。この塩では味に角が立つのと、塩漬けした時に固まって卵巣を傷つけてしまうなど作業性も落ちたため、粉砕した天日塩を使っています。天然の海水100%の塩を使うことで、高野屋の味を守ることができたのです」と高野社長。
塩漬けの後は1日かけて塩抜きをします。ひとつひとつ真水の中で塩抜きし、余分なものを取り除きます。ここが長崎からすみの出来を左右するとても重要な作業。塩を抜き過ぎると乾きが遅くなり味もよく出ず、塩の抜き方が少ないと辛くなってしまいます。
そして、いい塩梅になったところで、高野社長が「今も頑なに続けている」という天日干しに。工場の屋上で、大小さまざまな卵巣が板の上に並んでいます(※写真時は防虫ネットをしていませんが、現在は防虫ネット完備)。
色が統一していないのは、着色剤や発色剤などを一切使っていないため。太陽のもと、すべてに日光が行き渡るように並べて、朝から日没まで2時間ごとに、こまめに表と裏を入れ替える手間のかかる作業を続けます。小さいもので1週間ほど、大きなものでは10日以上干すそうです。
こうして完成した長崎からすみは、美しい琥珀色で重厚な輝きをしています。からすみ特有の滋味深い味わいや芳醇な香りが一層濃く、リピーターが多いのも納得。「からすみなら、おつまみに食べたり、パスタに入れたりと、いろいろな食べ方をして楽しまれています。私はそのまま切って食べるのが一番好きですね。自由に食べてもらえたらうれしいですね」の高野社長。
高野屋の初代・高野勇助は熊本県八代地方に生まれ、1675年(延宝3年)頃に長崎へ移り住み、現在の万屋町近辺で魚屋を開業。その頃、大阪で舶来品のからすみに出会います。サワラなどの卵巣で製造するのが一般的でしたが、勇助は長崎半島の先端部に位置する野母崎(のもざき)で、良質なボラが水揚げされていることに目を付けます。新鮮なボラの卵巣を使い、研究を重ねてつかんだ独自の手法で、現在の長崎からすみの原型、「野母からすみ」が完成しました。
また、「野母からすみ」は当時の長崎奉行に差し上げると称賛を受け、徳川家にも気に入られたという逸品。そして、高野屋は幕命のもとで正徳2(1712)年から156年間、「野母からすみ」を献上することに。このことで、「肥前のからすみ」が世間に広く知れ渡るようになったと、高野家の墓石に碑文が刻まれています(幕末から明治にかけて長崎で活躍した西 動仙が揮毫)。
お店には、「高野屋」を物語る狂歌(写真左上)も残されていました。平賀源内に才能を見出された人気狂歌師の大田南畝(おおた・なんぽ、別号は蜀山人・しょくさんじん)が長崎奉行所に勘定方として赴任したころのものです。
「蜀山人がうちのお得意さんだったのか、献上品の担当者だったのかは定かではありませんが、『野母からすみ』のことが書かれた江戸時代の狂歌も、家宝として受け継いでいます」
著名人も絶賛した「野母からすみ」は、その製法が代々受け継がれ、「長崎からすみ」に発展。今も変わらず長崎を代表する珍味として名声を博しています。「うちは一子相伝でやってきました。初代の思いを次に引き継ぎ今があります。私もいずれは次男に引き継ぐつもりでいます」と高野社長は話します。(写真は、高野社長と十三代目のお父様と)
「長崎くんち」が近づけばそわそわする生粋の長崎人、高野社長。長崎を愛しているからこそ、この地が育む伝統の味を丁寧にコツコツつくり続けているのです。
「からすみは長崎の食文化であり、日本の食文化であります。それを守り伝えて、さらにつないでいくのが私たちの使命と思っています」と高野社長。肥前国のころから愛される、伝統の最高級の味をぜひご自宅で気軽に楽しんでくださいね。