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H448市川光山窯「色鍋島瓢文マグカップ」

植物の瓢ならではの葉や蔦の生き生きさを表現しています。 翡翠の色にも似たもよぎ色が爽やかな印象です。 1点1点手作り、手描きの作品ですのでサイズや柄に多少の差異はございます。 〔市川光山窯・浩光作〕【(有)市川光山窯】 ※ご不在等により返礼品を受け取れなかった場合の再発送は致しかねますのでご了承ください。 ※ご不在になる日がございましたら、申込みの際の備考欄にご記入ください。  また、申し込み後にご不在日ができた場合も電話もしくはメールで連絡をお願いします。 ※写真はイメージです。

20,000 以上の寄附でもらえる
  • 常温
  • 冷蔵
  • 冷凍
  • 定期便
  • ギフト包装
  • のし
容量
径9㎝×高さ10㎝

植物の瓢ならではの葉や蔦の生き生きさを表現しています。 翡翠の色にも似たもよぎ色が爽やかな印象です。 1点1点手作り、手描きの作品ですのでサイズや柄に多少の差異はございます。 〔市川光山窯・浩光作〕【(有)市川光山窯】 ※ご不在等により返礼品を受け取れなかった場合の再発送は致しかねますのでご了承ください。 ※ご不在になる日がございましたら、申込みの際の備考欄にご記入ください。  また、申し込み後にご不在日ができた場合も電話もしくはメールで連絡をお願いします。 ※写真はイメージです。

20,000 以上の寄附でもらえる
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容量
径9㎝×高さ10㎝
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藩窯鍋島の歴史

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 「鍋島藩窯」は江戸時代の初期、寛永5年(1628)佐賀鍋島藩の直営事業として創業され、明治4年(1871)の廃藩に至るまでの250年間、藩の重要な御用産業として色鍋島をはじめ、鍋島染付、鍋島青磁などの磁器の名品、優品を焼き続けました。その製品は朝廷や将軍家の献上品、諸大名への贈答品および藩の御用品のみを生産し、民間への流出は厳重に禁止されました。

 藩窯の製品のうち、特に色鍋島は、世界における色絵磁器の中でも最も品位があり、意匠、図柄においても優秀な美術品であります。鍋島が焼かれている大川内山は三方を山水画に描かれているような岩壁や急峻な山稜に囲まれ、その景観はここが秘窯の地を物語っているかのようです。

 藩窯の職制には御道具山と呼ばれる、御細工所がありました。これに、藩から派遣された御陶器方が監督者になり御細工人、画工、捻り細工、下働き計31人で構成されておりました。そして、全員が藩窯の技術の秘密保持のため構内に居住していたのです。この人員構成は大河内の地に開窯後、明治までの200年間変わっておりません。陶工たち(御細工人)は藩から生活、身分を保障され、更に苗字帯刀を許された士分格とされ、全ての公課、苦役を免ぜられた手厚い保護と待遇を与えられていたのです。その反面に義務としては、年間に定められた数量の品物を製産して藩へ納めることでした。その上、御細工人でも技量が低下した場合には、罷免されることもあるので、御細工人は常に自分の技術の練磨と向上に努めたのは言うまでもありません。

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 また、有田一帯の民窯の中から優秀な陶工の抜擢登用の制度もあったので、民窯の陶工たちには御道具山の御細工人になることが大きな夢となっていました。鍋島藩窯の製品が格調高く優美かつ典雅さを備えた超一級品となったのは、こうした、陶工たちの技術ばかりではなく、代々の鍋島藩主が大きな力と並みならぬ熱意を注いだ結果です。更には藩が、製品に欠かせない白磁鉱石、釉薬原料、窯道具、薪材などの諸材料を充分に厳選したからでもあります。

 こうした、藩窯は江戸時代を通じて、他にはあまり見られない卓越した制度でした。明治の廃藩と同時にその形態は民窯となり鍋島侯爵家の御用窯として土地、細工所、構成人員の大部分は藩窯時代のまま継続されました。鍋島家はこの御用窯を藩窯最後の細工所責任者でもあり、名画工として技術のみでなく人柄も秀れていた市川重助にその代表者として運営一切の実権を与えました。そして、「藩窯」を改め鍋島御用窯の「精巧社」として明治10年に再建したのです。市川重助は明治31年59歳で他界しましたが、その長男光之助が跡を継ぎ、明治、大正にかけて御用窯の発展に大きく貢献しました。
 
 

「市川光山窯」 の歴史

 私の父、光雄は明治40年藩窯の御細工屋敷跡に光之助の5男として生まれ、大正13年県立有田工業学校、図案絵画科を卒業、昭和3年京都美術学校(現在の京都市立芸術学校)日本画科に入り、竹内栖鳳先生に師事し同校を卒業、第2次大戦中でも光雄の秀れた技術は、政府に認められて昭和15年(当時33歳)に現在の通産省の前身で当時の商工省より「伝統陶芸色鍋島」の技術保存者に認定されました。また、徴兵免除の恩典を与えられ、その技術を保護され美術品を焼き続けることが出来ました。

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 光雄は末子であったため家を出て、自身の窯「光山窯」を開いておりました。鍋島御用窯の「精巧社」は長兄の光内が継いでおりましたが、戦時中、経営が不安定な時代となり、このままでは伝統の鍋島藩窯が人手に渡る不安と懸念が生じた光雄の母は光雄を呼び戻し鍋島藩窯を再興させるように頼んだのです。光雄は鍋島藩窯の伝統を守るために自分の窯を離れ多額の負債とともに市川光山として今の場所で窯を継承する決意をしたのです。そして、73歳で亡くなるまで「青磁」「色鍋島」の作陶に飽き足らず至難とされた「磁器の辰砂釉」に成功しました。

 第18代光山は日本画を学んでおりましたので「デッサンが描ける焼物士はそういないだろう」ということを親しい人にたちに時折話していたようです。父が亡くなったのは、昭和57年1月私が大学の卒業を控えた頃でした。

 大川内山が秘窯の土地ということもあり、古くから伝わる技法や釉薬の調合の割合などは代々見聞き覚えで伝えられていたようです。実際父から直接学んだものはなかったように思います。それらを書きつけたものは一切ありませんでした。何もかも自分の頭の中に入れたまま亡くなりましたからほとほと困りました。ですが、江戸時代に藩窯で使われていた図案帳が残っていて焼き物の図案も沢山載っていました。藩窯が終わったあとも曾祖父、祖父、父、私へと受け継がれてきたのです。それに、天然の呉須と青磁の鉱石を父が遺してくれました。

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 父は当時の商工省から伝統技術保存者として指定され軍需省の特命の仕事をしていたと聞いています。そのために現在では入手しにくい天然の呉須を軍から交付されていました。天然の呉須は不純物が多いため発色が悪く、扱いが難しいので私はほとんどコバルトの呉須を使っています。私は男兄弟の中では1番下なので父が私に窯を継がせる意思があったのかどうかは分かりません。ですが、微妙な手の感覚が鈍るからと言って私だけは小さい頃から球技をさせてもらえませんでした。何で僕だけが・・・と思っていましたが幾何学的な更紗文様を深皿に描く時などに、ああこういうことかと言うことは分かりました。もちろん今では色々やっております。10~20代の頃は技術を磨くため細かい紋様が入った複雑な図案のものを多く作っていました。

 江戸時代から伝わる図案を見てお客様から注文が入ったりしますが私は江戸時代の作品が必ずしも100パーセントだとは思っていません。江戸時代の鍋島焼の作品にこの時代には出しにくかった緑色を多く使った作品があります。どうみても私は色のバランスが悪いと思うのですが、技術的に難しかった緑色を多く使って職人が自分の力を誇示しようとしたのかなと。描く場合は昔の図案をもとにしていますが9割方私の図案にしています。ご注文下さったお客様もこちらの方がいいと言って下さいますので。イメージしたものが出来なかったことはほとんどありませんが出来なかった場合は同じ方法でひたすら出来るまでやるということはしません。いったん止めてなぜ出来なかったのか、どうやったら出来るかを考えてから始めます。そしてたとえ成功して出来上がっても、次はもっと違うやり方でもっといいものが出来ないかと考えます。こういうやり方をほぼ1人の手でやっているのでお客様からのご注文は数カ月から数年かかることもあります。

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 鍋島焼の主な作業として「轆轤成形」「下絵付け」「上絵付け」があります。この3部門には、それぞれ伝統工芸士と1級技能士の国家試験があります。これら、すべての資格を得るためには6つの試験に合格しなければなりません。鍋島は極めて精巧な出来上がりを要求される磁器です。真の鍋島を知るには全てをやってみないとわからない、やる以上はまず全ての資格を取ることだと思い、(誰にも負けたくないという…欲張りですね)全ての資格を取りました。幸い私は轆轤を中村清六先生に教えて頂くことが出来ました。ですが、絵付けについてはほとんど自己流です。

 私は現在伊万里・有田伝統産業会館で後継者育成のために週に1度絵付けを窯元の後継者の人達に教えていますが、私がやり方をやってみせると、こういうやり方ってあるのですか?と聞かれます。私にとっては決められたやり方はなく、いいと思ったことはやってみます。でも、やるまでは今までの経験と知識を頭のなかでイメージしてやります。例えば昔の絵の具には鉛が入っていたために独特の風合いがありましたが今は鉛が使えません。そこで、昔の風合いを取り戻すために大学で習った油絵の技法で出来ないかと試行錯誤しています。

 私が目指している鍋島は江戸時代の鍋島ではなく、そうかといって目新しいだけの鍋島でもなく江戸時代の鍋島がそのまま続いていたらこうなっているだろう・・・鍋島です。
 
 

「鍋島藩窯 第十九代 市川光山」 陶歴

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昭和36年 4月8日生まれる
昭和57年 1月2日 十八代光山(没)
昭和57年 九州造形短期大学美術科卒業
昭和57年 有田町 佐賀県窯業試験場で釉薬の研究
昭和58年 中村清六先生に師事(ロクロ)
昭和61年 11月:大牟田市松屋デパートにて『鍋島藩窯親子作陶展』
昭和62年  4月:東京・新橋第一ホテルにて『鍋島藩窯展』
昭和62年  9月:東京・小田急・新宿店(本店)にて、
        『色鍋島・鍋島青磁 市川浩二作陶展』
昭和63年  9月:東京・東急日本橋店にて『鍋島藩窯 市川浩二作陶展』
平成 5年 第十九代 市川光山継承
平成21年~24年 10月:東京・ギャラリー喜久田にて『鍋島藩窯 市川光山展』
平成25年~ 10月:東京・銀座幸伸ギャラリーにて『鍋島藩窯 市川光山展』
平成26年~ 3月:東京・銀座ギャルリサロンドエスにて『鍋島藩窯 市川光山展』

【受賞】
平成26年11月 全国伝統工芸士会作品展にて「武雄市長賞」
平成27年11月 全国伝統工芸士会作品展にて「奨励賞」
平成28年11月 伝統的工芸品産業功労者 九州経済産業局長功労賞
平成29年11月 伝統的工芸品産業功労者 経済産業大臣功労賞
平成30年11月 全国伝統工芸士会作品展にて「広川町長賞」
平成30年12月 佐賀県優秀技能者 知事表彰

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昭和36年 4月8日生まれる
昭和57年 1月2日 十八代光山(没)
昭和57年 九州造形短期大学美術科卒業
昭和57年 有田町 佐賀県窯業試験場で釉薬の研究
昭和58年 中村清六先生に師事(ロクロ)
昭和61年 11月:大牟田市松屋デパートにて『鍋島藩窯親子作陶展』
昭和62年  4月:東京・新橋第一ホテルにて『鍋島藩窯展』
昭和62年  9月:東京・小田急・新宿店(本店)にて、
        『色鍋島・鍋島青磁 市川浩二作陶展』
昭和63年  9月:東京・東急日本橋店にて『鍋島藩窯 市川浩二作陶展』
平成 5年 第十九代 市川光山継承
平成21年~24年 10月:東京・ギャラリー喜久田にて『鍋島藩窯 市川光山展』
平成25年~ 10月:東京・銀座幸伸ギャラリーにて『鍋島藩窯 市川光山展』
平成26年~ 3月:東京・銀座ギャルリサロンドエスにて『鍋島藩窯 市川光山展』

【受賞】
平成26年11月 全国伝統工芸士会作品展にて「武雄市長賞」
平成27年11月 全国伝統工芸士会作品展にて「奨励賞」
平成28年11月 伝統的工芸品産業功労者 九州経済産業局長功労賞
平成29年11月 伝統的工芸品産業功労者 経済産業大臣功労賞
平成30年11月 全国伝統工芸士会作品展にて「広川町長賞」
平成30年12月 佐賀県優秀技能者 知事表彰

【資格】
平成 8年 2月 通商産業大臣認定・伝統工芸士資格授与 加飾部門(下絵付)
平成13年 2月 通商産業大臣認定・伝統工芸士資格授与 成形部門(ロクロ)
平成14年 2月 通商産業大臣認定・伝統工芸士資格授与 加飾部門(上絵付)

平成 8年10月 労働大臣認定・一級技能資格授与   加飾部門(下絵付)
平成14年10月 厚生労働大臣認定・一級技能資格授与 加飾部門(上絵付)
平成15年10月 厚生労働大臣認定・一級技能資格授与 成形部門(ロクロ)

*現在伊万里・有田焼伝統工芸士の資格取得部門が3部門と、1級技能士の資格取得部門が3部門あるなかで、
 その全部を取得したのは、市川浩二が初めてです。

平成28年 7月 厚生労働省 ものづくりマイスター

平成 9年10月 佐賀県知事認定・職業訓練指導員免許取得
平成14年10月 裏千家茶道 今日庵専任講師の資格 第408815授与

鍋島藩窯 市川光山 公式サイトのご案内

公式ホームページのアドレスはこちらです。 
 http://www2.ihn.jp/~kozan/  

作品掲載のほか、年間予定のページでは、東京・愛知・大阪・福岡などの作陶展の日程を掲載していますので、是非お越しください。

掲載内容について、調査日により古い情報の場合もあります。詳細は各自治体のホームページをご覧ください。また、万一、内容についての誤りおよび掲載内容に基づいて損害を被った場合も一切責任を負いかねます。

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